「―――」
息が止まった。私の喉に侵入しようとしていた空気でさえも動きを止めた気がした。そうだ、私は身代わりにされたのだ。それも国家のためではなく、両親の栄光のためでもなく、ただ一個人、私を雇った人間の。
「逃げましょう、姫…マレーン」
私の頭部にヴェールを装着させてきた侍女が、私を敬称で呼ぶはずの侍女が私にそういって警告をしてきた。忘れていた。私は今の私の格好に驚いて忘れていた。そうなのだ、私はもう、姫と敬られ頭を垂れられる立場ではなくなっているのだった。私は今や、この侍女と同じ立ち位置なのだ。けれど、侍女は昔日の常をなかなか削除できずにいるようである。
私は、侍女の言葉に首を横にも縦にも振ることができなかった。否、できるはずがない。だって、生命は惜しい。今、今この現実を選択しなければ私には生きていく頼みがないのだ。
…。負けた、のだ。私が私の身を捧げようとするまでに尊重していた国家は。父は母は。父と母の従者も、ひれ伏していた国民も全て、歴史の強者の前に――――隣国との戦争の前に潰えのだ。私にはもう、生きていく場所は現在のこの場でしかない。戦争の被害から逃れた私と侍女は彷徨いついたこの国家の城で下働きとして雇ってもらっていたのだ。
それでもいい、姫と慕われなくとも、それでも生きていけるならとそう思っていた矢先に、私は身代わりとされた。この国家の王子と今晩に結婚の挙式をする相手として、私は先程早急につくりあげられたのだ。
息がつまった。私はその本物の婚約者に食事を運んでいく仕事をしていた。私にはあの人の隣にいる資格がないの、と呟かれ、身代わりとしてこの化粧室に運ばれている時は心臓の音が脳裏に響きわたるほどに緊張した。
こんなの、嫌だ。私は私の生まれ故郷のためならどんなに人間性の欠けた男性に嫁ぐことだって構いやしない。それが私の人生のはずだった。そうでなければならなかった。だって、私は王女。国家の繁栄のための存在。それなのに、何故、姫の立場を剥奪されても尚、私はこんな純白を纏っているのだ。嫌だ。柵がなくなったのに、何故、私は知りもしない人間とありもしない婚約を交わしているのだ。そんなの嫌だ。
もう、私は自由になったのだ。姫ではなくなり、結婚するならば自分で自分と添うべき人間を見つけられるはずなのだ。私には、その権利が与えられたのだ。それなのに。