作中の『何』かは自己への提示である。
確実に存在するそれを、情報や興味の背景にしてはいけない。
大きな規模での問題や、遠く離れた国の悲劇に自分は何か出来ようはずがない。
死体の横で、泥水で顔を洗い、腹を極限にまで減らしている子供。
その顔にたかるハエすら払ってやる事は出来ないのだから。
身近な中に、まだまだ沢山の悲劇や理解しがたい『何』かが存在する。
存在するという事すら見失いそうにならないように……
自らの思考に逆らい続けなければ。
2008.01.20 この日に自分が記した文字を、何年かたった自分はちゃんと直視出来るだろうか?
出来れば、
加筆する自分であってほしい。


