−コンコン…


「お坊ちゃん。タクシーが来ましたよ」


佑樹が立つドアの向こう側からミタさんの声がして、佑樹はドアを開けた。


「三田さん。コーヒー溢しちゃって。片付けといてくれる?」

「承知しました」


佑樹と入れ替わるように三田さんは部屋へと入ってきて、佑樹はドア越しに俺を振り返り。


「じゃあな。佐野」


一言そう告げて、俺の視界から消えてしまった。


俺は佑樹の居なくなったそこから、視線を外す事なくそこを見つめていた。


……これで…
よかったんだ…これで…


必死に自分にそう言い聞かせる一方で。


…ホントに、これで、よかったのか?


もう一人の自分が横から俺に問い掛けてくる。


ぐるぐると、心の中で葛藤している俺を他所に三田さんは、倒れたコップをトレイに載せて、そこには、はじめから何も無かったように、綺麗に元通りにしてしまった。


溢れたコーヒーも、床に流れ出したコーヒーも、全てが何も無かったように。



−−はじめから何も無かった事にすればいい。



あの笑顔も、直ぐに恥ずかしがる姿も、予想外な寝相の悪さも、意外と忘れっぽい所や、料理が旨い事。


シロを膝の上に乗せて撫でている姿も、俺の名前を呼ぶ声も。


俺が呼ぶと、長い髪をサラリと揺らして振り向く奏も……


全部……、無かった事に……







「佐野様。お飲み物、入れ直しますね。リビングへどうぞ」


すっかり綺麗になったテーブルの前に、いまだぼんやりと立ったままだった俺に三田さんがそう言った。


「……いえ…、もう、帰ります…お邪魔、しました」


三田さんが部屋を出ようとする俺の背中に何か言っていたような気がしたけど、俺はそれには答えず、ここまで案内された順路を逆戻りで通り、高いコンクリート塀に囲まれた外側に出た。


ギラギラと照り付ける太陽の下。バイクを停めてある近くのパーキングへ、重い足取りを引きずりながら、俺はひとり歩き出した。