母が入院中、私宛に中学3年のクラス会通知が届いた。ここ数年、ずっとコレが届くのを待っていて、何を書くかは決めていた。

 “1999年1月15日 死去”

 実際、自殺願望のピークは成人式で、自分の中では1度死んだと考えていたし、再会したその日に死んだと思わせる事で、本当は生きているとバレたとしても、そこに何らかのSOSを残したかった。
 交換日記の受け渡しという役目を、当時の彼らがどのような意思でやっていたかはわからない。担任に言われて嫌々かもしれないし、自ら進んで名乗り出た者もいるかもしれない。そんな彼らが“死去”という言葉に、今度はどんな反応を見せるのか?
 …結局、誰からも何の反応もなかった。皆にとって、私は死ぬも生きるもどうでもいい存在なのだと知る。

 退院からしばらくして落ち着いた頃、家族は私に無理な期待をした。一家を支えるため、今すぐ働くようプレッシャーをかけたのだ。言われなくてもわかっているのに、わざわざ言って、余計、心の負担にさせる2人。「働く気はあるのか?」と問う母に、私は「ある」と嘘をついた。正直、社会に出てもやっていける自信はなかったが、成人としての労働義務や家族の期待に、けして「NO」とは言えなかった。
 すると今度は、
 「何のために働くの?」
 私は「家のため」と答えた。母は「家のためだけ? 自分のためには働かないの? あんたは一体、何をやりたいの?」と、続けざまに問う。
 「だって、家のために働かなきゃいけないんでしょ!! 私はいいよ、別にどうでも…」
 もう、社会に出て自分が壊れたってどうでもいい。死ぬ気で働いて本当に死んでも、家族は金さえ入ればそれでいいんだ。いっそ、自分に生命保険でもかけて自殺すれば、祖母は喜び、母は金が入って安心するだろうと思った。
 私が「死んでいるから」と言ったら、母は驚いて、
 「死んでるって、まだ生きてるじゃない?」
 けれど、私の中では死人の自覚があったから、「体は生きてるけど、心は死んでる」と答えたら、母は「もう、あんたに期待してもムダだね」と言って、シクシク泣き出してしまった。
 この事がキッカケとなり、私は母の言うところの『バラ色の人生』になるべく、7年ぶりに医師の診察を受ける事になる。