学校側は診断書を求め、私は神経科のある某診療所へ行く事になった。初回は家族3人で行き、祖母は診察室へ入るなり、医師に何か手紙のような物を手渡した。私はそれに何が書いてあるか不安で、また祖母が余計な事をしたんじゃないか、彼女の勝手な憶測を医師が鵜呑みにするのでと、気になって仕方がなかった。そのうえ、自己申告したにもかかわらず、目の前で身長・体重を測るよう言われ、年頃の私にはそれが不快なものに感じた。
 どうにか診断を終えるも、医師は「診断書は書けない」と言う。こういう心の問題は、長時間じっくりカウンセリングした上で結論を出すというのだ。
 「でも…」と祖母が学校からしつこく要求された事を話すと、医師は自分が学校に説明すると連絡先を聞き出し、これにより、以後、私の知らない所で情報交換が行われるようになる。
 赤ん坊の頃、夜泣きで訪れたという寺での祈祷を筆頭に、治療は困難をきわめた。今も昔も私に必要だったのは、専門家よりむしろ“愛情”だったのかもしれない。
 祖母は私が小学生の時に書いた『グループ活動について』の作文を偶然見つけ、その内容に「何でもっと早く忍の苦しみをわかってやらなかったんだ」と、今更ながら小学校に抗議の電話をしたらしい。そのせいか、5年生の時が恩師が突如家に現れ、その後、1年間文通が続いた。
 医師と学校との間でどんなやり取りがあれか、わからぬ不安。診察のたびに「ちょっと太った?痩せた?」と気分を害す医師。治療なんてどうでも良かった。薬さえ手には入れば…
 精神安定剤と睡眠薬を飲まずに貯め、これを使えばラクに死ねると思うと、待ち遠しくて仕方がなかった。


そんな中、担任から1つの提案が出される。進級に伴うクラス替えで、孤立しないよう、友達と同じ組にさせるというのだ。私は放置による不審から里奈をわざと選ばず、小学校で仲の良かった千秋という妹的存在と加代を候補にあげた。
 中学生活の再出発と周囲の気を引くため、髪をショートにし、同じ理由から眼鏡も購入したが、反応は思った程ではなかった。
 新しいクラスの担任は峯山という男性教師で、出席番号順で隣りの席にはかつてのイジメっ子の姿があった。候補からは加代が選ばれるが、彼女もまた私を苦しめる原因となり、波乱の生活がスタートする。