私はそれまで見ていたテレビを消し、耳の全神経を玄関に集中させた。と、間もなく父の足音が玄関に向かうのを感じる。
━━━引き止めなくちゃ!!
 とっさに父を追いかける。既に靴を履き終えた後だった。
 「外に出ちゃダメだよ」
 「ちょっとだけ。すぐ戻って来るから」
 「ダメ!! だって、お母さんに引き止めといてって言われてるもん」
 「いや、本当にすぐ戻ってくるから」
 そう言って笑う父。私は幼心にそれを簡単に信じてしまった。
 「本当? 本当にすぐ戻ってくる?」
 「本当だって。ちょっとそこまでタバコ買いに行くだけだから」
 父はそう言って私の前から消えた。生前の彼を見たのはこれが最後だった。

 帰宅した母は私を責める事はなく、ただ漠然とした不安の中で一夜を過ごし、翌朝、警察からの電話で父の死を知った。母から聞いた話では、父は大量の飲酒の後にドアを完全ロックし、車内で眠るように死んでいたと言う。幼い私はそれを“自殺”と認識するものの、なぜ酒を飲んでカギをかけただけで人が死ぬのか、理解出来なかった。
 やがて、お棺の父に寄り添うように母が帰宅し、その時、初めて母の涙を目にする。私はどういうわけか涙が出なくて、涙ぐむ母を見て「お父さんの事、愛してたんだなぁ…」と当たり前の事を考えていた。
 のちに祖母から聞いた話では、父は職場の仲間に尊敬されたいがために連日食事をおごりまくり、裏ではギャンブル、借金、浮気、暴力…と、散々だったらしい。家族を車に乗せる時も「金を払わなければ乗せない」と、とても婿養子とは思えない傲慢な態度で、祖母はそんな父を「家(土地)が目当てで婿に来たんだ」と罵った。おまけに、私より年上の隠し子がいるとか、いないとか…。
 私はこれらの話が真実か知り得ない。ただ、物心ついた時には既に夫婦の寝室は別々であり、父と母が愛しあっていた印象がない。

 葬儀には保育園側から園長と担当保育士が出席し、心配する2人を横に私は1人無邪気で、「お父さんが死んでつらいだろうけど、泣いちゃダメよ」と言われても、私は泣くどころか、着慣れないドレスにお姫様気分で、自分が絶対言ってはいけない事を父に言ってしまったと気付いたのは、それからしばらくしての事だった。