子供は海を見ていた。

崖から見下ろす海は、幼い頃から知るものなのに今日だけは違って見えて。

当たり前なのかもしれない。

その子は小学生という若さで、今この瞬間にも飛び下りようとしていたのだから。

一歩踏み出した途端、世界が広がった気がした。

これで楽になれる。苦しいことがなくなる、と。

それしかもう、頭になかった。

いるかもしれない『自分を愛する人』が悲しむとか、自殺してはいけないとか。

そんな「常識」はもう、カケラも頭の中にはなくて。

ただ、ただ―――。

その先に自由があると信じて…一歩を。

崖からズルリと足が滑り落ちた。

瞬間、感じたのは浮遊感。重力に従った、落下。

「…あ…」

声がわずかに漏れ、思わず目をつむる。

刹那、ぶわりと恐怖が湧き上がった。

「あぶないなあ」

ふわり、と感覚が変わる。

海と岩場に向かって落下していた身体は、引き上げられるように空中で抱き抱えられたのだ。

「少年、自殺か?それとも事故か?どちらにしろ、こんな場所をうろつくなんて感心しないな」

子供は、ゆるゆると開いた目を頭上へ向ける。

「…は…ね?」

自分を抱える青年の背中には、白く大きな翼が広がっていた。

それは、天使の羽。

逆光で見えない青年の顔が、笑ったように見える。

「少年、戻るよ」

「う…ええ!?」

バサリと大きな羽音がして、小さな身体は青年に抱えられたまま大きく飛び上がった。

「うわああッ!」

叫び声だけが、海へと落ちていく。




これが、物語のプロローグ。