これは、自分のことしか考えられないときに、相手のことを考えられる自分でいたいという、マザー・テレサの有名な祈りの言葉です。

私はそのマザー・テレサの祈りを、自分の母親のそれと重ねたのかもしれません。

マザーが生前、いつも話してきたことは、たとえば自分は何も持っていないけれども、3日間だけ甘いもの─つまり炭水化物─を食べないで我慢するから、その分の砂糖を誰か、甘いものを欲している人にあげたい。

そのほうが価値があることなのだと、マザーは言っているわけなんです。

たくさんのお金を持っている人がいる。それは傍から見てもそうなのだろう。

でも、彼個人にとってはそれは、たくさんのお金でもないし、寄付をしても、大したことのない額。

マザーの愛はそうではないんです。

どれだけ持っているのか、どれだけ傷ついているのか、そういうことを超越して、どれだけ相手に自分を奉仕しているのかが大事なんだと、マザーは説いているわけです。

振り返って、私の母親はそういう人でした。

それは私に対してのことがまず一つ。

母の生き方というのは、私に対してのそれだったと思うのですが、持っているものの全部を私に与えてくれた、捧げてくれた。

命も含めてなんです。

だから私は、本当の愛というのは、そういうものだと思うんです。

そして、マザーからつながって聖書に行くのですが、真の愛というのはイエス・キリストが示した愛だと思っている私がいます。

イエス・キリストという人は人類を救うために生まれてきた、この世に生を受けてきた人です。

完全なる命を人類が神様に返すために、死ぬために遣わされたのがイエス。

人類のために死ぬということのために生を受けたことをイエスはよく知っていたんです。