次に、大学時代に児童養護施設を訪問していたころの経験があります。
親に捨てられたり、なんらかの事情で親と暮らせない彼らとの触れ合いのなかで、なんとかしてあげたいという願いが私にしました。
そして、12年前にカンボジアに学校を建設するという動きにつながっていった。
自分がなにかしなければいけない。
させていただかなければいけない。
そういう思いは時とともに、日常を過ごすなかで次第に薄れ、優先課題から消えていくのがふつうなのもしれません。
でも、私はそれが、薄らぐどころかなぜか日増しに強くなっていく。
宗教家や僧侶などには、「それがあなたの使命なのですよ」と言われて片づけられることが多いんですが、私には強迫観念なんです。
繰り返しになりますが、私をしてなにが、そこまで突き動かすのか、それがわかりませんでした。
考えてはし、答えを出せるまでにあと一歩ほどとなりながらもそこで足踏みし……幾度となくそうしてきました。
しかしいま、本書の最終章にさしかかり、こうして自分自身の衝動がなんであったのかを、これまでに私が関わってきた多くの人々のエピソードを交えながら振り返るとき、ようやく、その答えが、見えてきたような気がするのです、いまになってやっと。
そしてそれがなんなのか、ここで正直に告白せざるを得ません─。
親に捨てられたり、なんらかの事情で親と暮らせない彼らとの触れ合いのなかで、なんとかしてあげたいという願いが私にしました。
そして、12年前にカンボジアに学校を建設するという動きにつながっていった。
自分がなにかしなければいけない。
させていただかなければいけない。
そういう思いは時とともに、日常を過ごすなかで次第に薄れ、優先課題から消えていくのがふつうなのもしれません。
でも、私はそれが、薄らぐどころかなぜか日増しに強くなっていく。
宗教家や僧侶などには、「それがあなたの使命なのですよ」と言われて片づけられることが多いんですが、私には強迫観念なんです。
繰り返しになりますが、私をしてなにが、そこまで突き動かすのか、それがわかりませんでした。
考えてはし、答えを出せるまでにあと一歩ほどとなりながらもそこで足踏みし……幾度となくそうしてきました。
しかしいま、本書の最終章にさしかかり、こうして自分自身の衝動がなんであったのかを、これまでに私が関わってきた多くの人々のエピソードを交えながら振り返るとき、ようやく、その答えが、見えてきたような気がするのです、いまになってやっと。
そしてそれがなんなのか、ここで正直に告白せざるを得ません─。
