「エルシス様!お逃げ下さい!」



焦燥しきった声に、一人の幼子は夢のまどろみから目を覚ました。

何が起きたのかとゆっくりとベットから上半身を上げるまでに、まだ幼い体は誰かに抱き上げられた。



「ばあや……?」



徐々に覚醒し始めた頭で、漸く自分を抱き上げた人物が、自分の乳母であることに気がつく。

窓からこぼれる月明かりは、異様なまでに焦燥した彼女の顔を照らす。

幼子が自分の乳母に何かを問う隙はなかった。

尋常ではないらしいことをどこか幼子は感じとった。



「エルシス様」



幼子を抱えて、とても広い邸を乳母は走る。

もう60を越す彼女に長く走ることは至難の技。それでも状況はそれを許さない。

幸いにもこの邸勤めが長いおかげで、邸の地図には詳しい。



「…ばあや……」



腕の中で不安げに無垢な瞳が揺れるのを彼女は見た。

なんとしてでも、この子を守らなければいけない。



「エルシス様……貴女は生きるのです」



ヒストール家の為にも。

この醜い争いになど屈してはいけない。



年老いて尚、失われない乳母の瞳の強さ。幼子、エルシスにも底知れぬ強さを彼女から感じとった。