六天楼の宝珠〜亘娥編〜

 「あの人」ではなく「あの方」に変わったのは、指し示す相手が翠玉ではなく季鴬に変わったからである。本来使うべき呼称を使わない所に、彼の複雑な心理が表れていた。

 そもそも『鉦柏楼に亡霊が出る』とまことしやかに囁かれるのは、きちんとした理由がある。今現在主となっている人物は、時折夜に出歩く姿が目撃されているからだ。

「逆に夫人は夜は流石に歩かれませんでしょうから、ご懸念には及ばないでしょうが。念のため報告申し上げておきます」

 碩有は黙して答えなかった。心なしか、気分を害してさえ見える。

 立ち上がり無言でてきぱきと書類を片付け始める。

「今日はもうやめよう」

──とりあえず、もの思いからは開放されたらしいな。

 季鴬が絡むと、何故か主はいつも思考を停止させる。

 朗世は己の奸智を喜ぶべきか、はたまた嘆くべきか判別がつかないままに後に従った。

※※※※

 広い寝台の中で、翠玉は眠れずにもう幾度目かの寝返りを打った。

 見ない様に見ない様にとしていたのだが、つい隣の空間に目が行ってしまう。

──自分で仕向けたくせに。

 その度に自分を叱りつけた。自業自得なのだから、たかだか数日の独り寝くらい我慢出来なくてどうするのだと。

 けれどもしばらく振りの静か過ぎる夜は心もとなくて、おかしな事に二人寝を始める前よりも寂しい気がするのだ。

 ともすれば包まれるあの優しい腕の感触を思い出しそうで、彼女は思い切って寝台から抜け出す事にした。布団の上に掛けてあった褂(うわぎ)を羽織って、帳をくぐる。

 雨戸を閉め切った房内には月の光すら入らず、辺りは暗闇に閉ざされていた。

 長卓の上にある飾台をようやっと探し当て火を灯すと、人心地ついた代わりに寒さが身に沁みる。