「…おつり、50円ね」

 この数カ月で、ずいぶん“愛想”というものを沙織に叩きこまれたつもりなのだが。

「諒くん。サービス業は笑顔よ、え・が・お」

 笑顔の手本見せるなら、せめて目だけでも笑ってくれ。
 諒はそんなことを思いつつ、沙織に引きつった笑顔を返す。
 わがままな客がいても、逆セクハラのおばさんがいても、何かを勘違いしている女子高生がいても。
 いつも“笑顔”でいることが出来る人間って素晴らしい。
 諒は本気でそう思っていた。
 しかも、さっきから妙な視線を背中に感じる。
 その正体は分かっている。
 店の一番奥の席に座って小説を読んでいる、さらさら髪の眼鏡をかけた女性だ。
 仕事帰りなのか、毎日のようにこの時間、ここで何時間か小説を読んで帰る。
 だが、彼女は本当に本を読んでいるのだろうか、と疑問に思う。
 その証拠は、背中を向けた途端に突き刺さる彼女の視線。
 何日もずっと同じ、真ん中あたりを開いた小説のページ。
 諒が振り向くと、小説を読み進めているようなのだが。
 彼女は支配されている訳でもない。敵ではない。

(…何なんだ)

 いつの間にか、諒は彼女と視線を合わせようと努力するようになっていた。
 しかし、どうしてこっちが振り向くタイミングが分かるのか、どうしても視線を合わせられない。

(やっぱ敵なのか? …まさかな)

 狙っているのというのなら、こっちは隙だらけだ。
 いつでも攻撃出来る筈。

「諒くん、これお願い」

 沙織が追加のコーヒーを入れた。

(チャンス!)

 彼女のテーブルだ。
“視線を合わせる”バトル、勝利を得る絶好のチャンスだ。
 あくまでさりげないのを装いながら、諒は彼女のテーブルにコーヒーを運ぶ。
 案の定、しらじらしく小説に目をやる彼女。

「お待たせしました」

 たった今“愛想笑い”の極意を拾得したことを確信した諒。
 だが、彼女も負けてはいない。
 しぶとく小説を読んだままだ。
 どうしてくれようかと悩んでいると、また沙織に呼ばれた。