ダリルがナサルタリムに与えた離れから渡り廊下を母屋へ向かえば、庭に配した水盤が目に入る。
大洪水で滅びかけた大陸で、皮肉にも今はどこも水は貴重な資源となっている。

一度世界の歴史を白紙に戻したほどの大洪水が起きてから二百有余年──それは新生アルゴール帝国の歴史と同じだが──、大陸のあちこちに出来ていた湖沼は徐々に姿を消していっている。雨も、山から流れてくる水も、今あるものを保つことすら出来ないほどに少ないのだ。
水をたたえた庭の水盤は、贅沢や権力の証のようなものだ。だが、ダリルは今あるものだけでは足りぬ、とばかりに水盤を睨んだ。

「おいっ、誰かおらんか」

人気の少ない邸宅の広間を通り抜けながら声を上げれば、控えの間から一人の男が駆け寄ってくる。
一見して鍛えられた兵とわかる男は、ダリルの足元に片膝を着いて頭を垂れた。ダリルは立ち止まり、その男に視線もくれず前を向いたまま、

「ジュエかジュカイに縁のある者はあるか」

とだけ尋ねた。男は問われた内容を図りかねながらも、自分の記憶を手繰る。

国の七領地の内の一つ『トガチ』の領主も兼任するダリルが、ただトガチ候と呼ばれていた頃から仕えている男は、謎の魔術師をこの館に囲うようになったこの一年余り、通常の職務以外に意図のわからない任務を与えられることが多くなっていた。
執政者という立場から、空位の皇帝代理として国務で兵を使うのか、あるいはトガチ領主として用があるのかすら伝えられない。

一瞬の間をおいて、男は差しさわりのない答えを導きだす。