確かに男が歌っているようなのだが、さっき聞いた声とはまったく違っていた。

確かな旋律も歌詞もない。ただ透き通って響く楽器の音色のようだった。

身体中が震えだすような歌声にアナが聞き惚れる間もなく、突然男の姿がよろめいた。

その途端、アナも戸を掴んでいなければ倒れていただろうほどの大きな衝撃と地響きを感じた。

部屋が波打つような、突然、確かな大地を失うような心もとなさがアナを襲う。

地震だ、と思ったが、アナは自分が体験したことのあるそれとはまったく違うものとしか思えない程の揺れに、体が宙に放り出されてしまうのではないか、それよりも家が崩れてしまうのじゃないかと恐怖した。

そんなアナの状態と比べると男は違和感を覚えるほどに普通だった。

よろけて数歩後ろに下がったところで背中を壁に打ったが、男はそのまま歌い続けている。顔は蒼白で苦しげに眉をひそめ、激しい揺れの中でもわかるほど手がブルブルと震えているが、それはこの地震に恐怖しているからというわけではないような気がした。

アナが呆然と男の様子を見ている間も揺れは治まらない。おそらく五分も揺れてはいなかっただろう、もしかしたら一、二分のことだったのかもしれない。

棚の上の木箱が自分に向かって落ちてくるのが見えて、アナは悲鳴を上げた。

とっさに頭を庇う腕に木箱がぶつかり、そのまま投げ出されていた右足に落下する。

「痛っ」

足に痛みを自覚したときには揺れは唐突ともいえる感じで治まっていた。

しっかりつかんだ扉をいまだ離せないまま、アナは自分の足を見た。

靴を履いていなかったのが災いして、むき出しだった足の甲がずきずきと熱を持って痛む。


アナはさっきまで壁際に立っていた男のほうを見た。

歌はいつの間にか止んでいた。それもそのはず、男は気を失っているようにぐったりと床に横になっている。

倒れたときに落としたのだろう…アナが鞄に仕舞っていたはずのあの欠片が男のそばに落ちていた。