海と微熱の狭間で

原野がくる時間はもうすぐだった。

可純はやはりまだ言わないでおこうとして口を閉じたが、代わりに葛城が口を開いた。


「…プロポーズして今更何だけど、さ」

それは無意識の呟きのようで、すき間風のようなか細い声だった。

「…本当に俺なんかが可純と結婚してもいいのかな」
おこがましくはないだろうか。


か細くても、嫌になるくらいよく通る声。
可純は表情を強張らせた。


「…どうして?」
答えなど、とうに知っていた彼女だが、そう言わずにいられなかった。


葛城は自嘲するように小さく笑う。
可純は嫌いな顔だ、と気分を慨した。


「どうしてって…君も知ってるだろ?俺が…とんでもない闇を買ってることを」

可純は途方もない激しい怒りを感じた。

何を、何を今更言っているのだろう。
可純は目の前の恋人を罵倒したくなった。


瞳に激しい嫌悪感を映し、葛城を睨み付ける。

葛城はその瞳をみるやいなや息を止めた。
怖じ気付く、が今の彼にあった言葉だろう。

可純は泣きそうになる己を必死に宥めた。
悔しくて、泣きそうだった。


彼はまだ救われようとしていない。
幸せになることを拒んでいる。
そして、彼女さえも拒もうとしている…。


可純は小さく笑った。自惚れていたことがおかしかった。


一緒にいて、愛し合って、時間だけが過ぎるのを待って…
葛城があの事を忘れてくれるのを祈っていた。
だけど…


可純は指輪を外して机に置いた。葛城が吃驚したような顔をして彼女を見ている。


「あなたがそう気に病むなら、結婚は出来ないわね」

葛城は呆然としながらも、不思議そうだった。

これが解らないなら、ますます結婚は出来ない。いや…それだけでなく一緒にいることすら意味がない。

可純は席を立った。


「…別れよう。あなたがそんなんじゃ一緒にいる意味が無いもの」

可純は扉に向かう。
葛城は呆然として動かない。


可純は葛城が好きだ。だが、自分の意志など二の次だった。


「…さよなら、置いて帰った荷物は捨てていいから」


扉を閉める。
見覚えのある車が、目の前に止まった。