Fahrenheit -華氏-


8階のフロアに戻ると、奥半分は電気が消えていた。


手前半分はまだついていて、外資物流部のブースからパソコンを鳴らす音が洩れ聞こえてくる。


俺がそっと顔を出すと、


「あ!お帰りなさい」と佐々木が慌てて席を立ち、その向かい側で柏木さんもぺこりと頭を下げていた。


「柏木さん?まだ帰ってなかったの?もう12時近くだよ?」


「分かってます。でもこれ、まだ終わってないので」


と言って先程揉めた書類をペラリと上げる。


怒っては……ないようだ。ついでに言うと悲しんでもなさそう。


いつもと変わりない様子にほっと胸を撫で下ろす。


「あ!あの…柏木さんは僕の仕事を手伝ってくれて。今まで残っててくれたんです…あ、でも別に馴れ合いとか……」


佐々木はもごもごと口を動かす。


「佐々木、お前もう帰れ」


俺は上着を脱ぐと、佐々木を見下ろした。


「え?でも…まだ見積書の作成とか終わってないですけど」


もしかしたら、まだ怒っていますか?という不安げな目で俺を見上げてくる。


俺は出来るだけ優しく笑うと、やんわりと言った。


「終電なくなるぞ。後は俺がやっておく。柏木さんも…もう遅いから帰りなさい」


「私は大丈夫です。タクシーでも拾いますから」


「そういう問題じゃなくて…」


俺はちょっと目を細めると、柏木さんの隣に歩み寄った。





「女の子がこんな遅くまで会社にいるもんじゃないよ」




俺はなるべくゆっくりと、柏木さんの耳に一言一言響いてくれるといいな、と思いを込めて言った。