「…ゆきの」

優しく唱えられた『ゆきの』という言葉。

抱きかかえられた胸に深く反響し、耳から脳へ、そして全身に伝わった。

まるで何かの呪文であるかのように、私の体は固まる。

そして、流れに身を任され心地よさを深奥から感じたいと、甘い願望の中に陶酔したいと思った。

でも、それも一瞬のこと。

…『ゆきの』

『ゆきの』って…?

どの『ゆきの』?

…私はあの人の身代りじゃないッ!

駆け巡る感情を爆発させ、先刻以上に強く暴れ、床へと転がりこんだ。

固く抱きとめられていたものを強引に引き剥がしたため、反動で床に全身を強く打ちつけ、ドシンと大きな音をたてた。

床に左肩を、ローテーブルに右足をぶつけ、その衝撃で一気に現実へと引き戻され、一瞬そこにあったはずの甘さをはらんだ熱は急激に冷えていく。

痛みを堪えながら立ち上がり、足早に立ち去る。

―バタンッ―

リビングの扉に感情の全てをぶつけ、自分の部屋へと逃げ込んだ。

「うわぁぁぁぁん!!」

まるで何かのスイッチが入ったかのように、自室の扉を閉めた途端、私は大きく泣いた。

泣くという言葉では足りないほど、大きく声を上げながら泣いた。

時折、咽(むせ)び、息を引きつらせる。

喉の奥に焼けるような熱。

口の中はどんどん乾いていく。

水分の飢餓感を煽るように、瞳から止めどなく流れ出す涙。

扉を背にしゃがみ込んでいた私は、座っていることにも耐えられず、いつの間にか床に横になっていた。