少年に別れを告げて、私は家路へと歩き始める。歩きながらポケットの紙を取り出し、その字に視線を落とした。

 そこには妻らしいしなやかな字で妻の名前が在る。簡素な白い紙の上に夢うつつな異空間性を抱えて。

 そういえばこの名前を最後に呼んだのはいつだろう。
 結婚した当時は名前を呼んでいた。
そして親になってお互いの立場である「お母さん」と呼ぶようになり、子供が自立してからは……何と呼んでいただろう。
一番最近の記憶であるはずなのに思い出せなかった。

 次に彼に会う事ができたら伝言は妻の名前を入れようか、と私は思った。でもすぐに思い直す。
いや、名前だから私が会って私の口で呼びたい。

 いつか妻の傍に逝った時は、初めにその名前を呼くことにしよう。妻はどうするだろう。
「何よいまさら」と照れるだろうか。「無理しちゃって」と反対に冷やかされるかもしれない。
その時私はどんな顔でその名前を呼ぶだろうか。

 右に折れると家に着く道。
帰りかけて、私は左に曲がった。
少しいい事を思いついて、思いがけず歩調が少し早まる。
気分が少し高揚する。

 馴染みの本屋が見えてくる。年季の入った看板の向こうには、少年が昇って行った空が、果てしなく広がっていた。

 本屋に寄って折り紙の本を買おう。鶴の作り方の載った本を見て、この紙で鶴を折って、毎日妻の名前を呼び掛けよう。
いつか妻の名を呼ぶ時、その時に照れないように、ちゃんと呼べるように。


 いつになるか分からないけど、おそらくはそんなに遠くない未来に、私は静かに希望を見出した。



《おしまい》