これだけ膨大な記憶の中からとっかかりを掴むのは激流の中で小枝を掴むことに似ている。
濁流のように混沌とした思考の波に押し流されながら、ただ一つの必要な情報に注視し、用心深くも素早く、そこに手を伸ばす為には躊躇している暇はない。
一度掴み損ねたら、もうその記憶に再び会う事は出来ないかもしれない。
それが重要なものなのか、詮無い記憶であるかは僕たちには分からないしこの記憶の持ち主にしたって、思い出せない以上量る事は出来ないだろう。気持の悪い思いをするかもしれない。

それでも途切れた記憶を持ち、それを後悔したとしても、この空間は新しい記憶を産む事をやめないだろう。

よく分からないけれどたぶん生きると言うのはこういう事なんだろうな、と僕は思った。

過去は死んでいくのだ。どうしても。

どうでもいい記憶も、重要な―記憶の持ち主が重要だと思っているだけで実は大したことではないかもしれないけど―重要な記憶も、忘れたいと思っているのにどうしてもすぐに辿ってしまう記憶も。

この縦横無尽に糸を張り巡らせては切っていくということが、おそらく生きていく、と言う事なんだと思う。

この糸が減った時、僕たちも少しづつ減り、やがて最後の糸が切れた時、僕たちも消えるのだろう。
その記憶の先にあるのはどんなものなんだろう。
僕はその最後の糸の先を見る事が出来るだろうか。

無節操でも無様でも、この記憶の持ち主には長生きしてほしいと僕は思う。
そして最後の記憶が美しいものでありますように。
僕もその記憶の中のひとつだから。
欠片みたいなひとつだけど。



《おわり》