だって落ちないか、ってどういうことだか分からないし、昨日までこんな穴はなかったから。

それを言うなら私が今ここを通り過ぎるまでこんな穴はなかったのだ。こんな場所ふさぎな穴があったら俯いていた私の目にも入るだろうし、派手な色の立ち入り禁止のテープだって私の視界の端に引っ掛かっただろう。

それにこのおっさんだって怪しい。

見た目がそもそも怪しいし、全く気配を感じない。気配なんて言うと何だか現実離れしている気もするが、それを言うならこのおっさんが生物離れしているというか、こうしておっさんを見ていてもまるで人を相手にしている感覚が起きない。壁でも見つめているような気持しか起きないのだ。

服のボタンをかけ違えたまま出掛けてしまったような居心地の悪い感じで出来た世界にでもいる気分。私が下ばかり向いて歩いていたから変な場所に落っこちてしまったのだろうか。

そんな非現実すら認められるような違和感。

「どうなの、落ちるの、落ちないの」

石像のように立ち止っている私にまたおっさんが話しかける。
口を開くたびに口腔内の暗闇が不格好に歪む。
この大きな穴の暗闇をおっさんの口に張り付けたみたいだ、と私は思った。

「落ちると言うならもう落ちてる」

私はようやく口をきけるようになった。

居心地の悪さをそのまま認めて、居心地の悪い空気を吸って、居心地の悪い世界に歪なままの言葉を吐きだす。

「知らないうちにこんな場所に落っこちてきた」

整理のつかない言葉をそのまま下にのせた私をおっさんはヒャヒャヒャと愉快そうに笑った。

「面白いことを言うね。あんたはどこにも落ちてないよ。ずっと見てた俺が言うんだから間違いない」

「気持悪い」

ずっと見ていた、という台詞へか、おっさんが吐く暗闇へか、自分でも分からないまま悪態を吐く。

「まぁ、なんだね」

気持悪いと言われた事を気にする様子もなくニヤニヤ笑いを浮かべたままおっさんはまた言った。

「あんた、穴に落ちてみんかね」