『落ちる』

落ちないか、と声をかけられたのはいつもの帰り道でのことだった。

その時私は仕事で大きなミスをしたから俯きがちに歩いていて、もう最低穴があったら入りたいできればそのまま出たくない、なんて思っていた。
そこにこの言葉である。

しかし私が顔を上げたのはその言葉を理解して願ったり叶ったりと思ったから、というよりは、人の声がしたことに反射的に反応したからだと言っていい。

だって私が歩いているのは日もどっぷりと暮れた薄暗くて細い路地で、街灯が心細く震えながら点っているような場所で、今まで人とすれ違ったり、見かけた事は有れど、この道で誰かが話をしていたり、ましてや話しかけられたことなんてなかったから。

そんな小さな引っ掛かりを感じながら振り返るとそこにあったのは四方を「立ち入り禁止」のテープに囲まれた道を塞ぐほど大きな穴だった。

穴だ、と私は思った。

マンホール3個分くらいの大きさの穴は、少し離れた場所からでもその暗闇を伺う事が出来た。ご丁寧に『危険』という手書きの立て看板まで立ててある。
なるほど深そうな穴である。

薄暗い中でさらに黒い圧倒的な存在感を誇示する暗闇に、私は足を掴まれたように立ち止った。

そして落ちないか、というさっきの台詞が脳味噌に浸透する頃もう一度、落ちないか、という言葉が聞こえてきた。

夜目の効かない私は眉根を寄せて注意深く声のした方を窺い、穴の向こう側の電柱の陰に時代錯誤な山伏みたいな風貌でニヤニヤしているおっさんを見つける。

私は立ち止ったまま何も言わなかった。
何も言えなかった。

頭の中に出来上がった疑問符の山を崩さないと、とてもじゃないけど会話というコミュニケーションツールがあることを思い出せないくらい、私は混乱していたのだ。