有料散歩




夕食を済ませた春樹は電話の前で躊躇っていた。
なにをするのか気づいているくせに、夏はなんにも言わない。

「適当に名づけた。」

と言われたらどうしようかと、心の準備をしていざ受話器を持ち上げようと春樹の手が動いた。

プルルル…

着信音が響く。
驚いて手をひっこめた春樹だが、ナンバーディスプレーに表示された番号を見てすぐに受話器を上げた。

「もしもし、」

『お、春樹か。父さんだ。』

「うん、」

『どうだ。山での暮らしは。昨日も電話したんだがな、春樹はもう休んだって言われてなぁ…、今日は早めに電話したんだ。』

「うん、楽しいよ。」

『そうか、良かった。あ、散歩してリスの巣穴を見つけたんだってな。父さんにも今度教えてくれな。』

「うん。あのね、父さん…」

『ん。』

「今ちょうど僕も電話するとこだったんだ。」

『どうした。体の調子、悪いのか。』

「ちがうよ、聞きたい事があったんだ。」

『なんだ。』

「僕、春樹って名前でしょ。」

『名前。ああ、父さんがつけたんだぞ。いい名だろう。』

「僕、冬生まれなのに、どうして春の樹なの。…適当につけたの。」

自分の発言なのに、鼻の奥がつんとする。

『適当、そんなわけないだろう!』

力いっぱい否定する父さんの声を聞いて、なぜだか言葉が出てこなくなってしまった。

電話越しに父さんのおろおろした声が聞こえる。

『春樹。ちゃんと春樹の名前には意味があるんだぞ。』

電話で伝えることじゃないな、と電話口でつぶやく父さんの声。耳に入ってくるのは機械で作った音なのだが、温かくて胸が詰まった。

電話の奥で母さんの声もした。どうしたんです、早く代わってくださいと父さんにせびっている。

向こう側で父さんと母さんが二言三言会話したかと思うと、

『春樹、今から母さんとそっちの家に行くから、一旦切るぞ。』

「え。でもまだ仕事あるんじゃ…」

春樹の返事を待たずに電話は切れ、今度こそ温度のない機械音が春樹の言葉を飲み込んだ。