有料散歩




「あ、ちゃんと湯舟の蓋したの。」

浴室から出た夏に彼女は問いかけた。
夕飯のいい香りがする。

「した。」

「待ってね、ご飯もうすぐ。」

ソファーに座り、テレビのリモコンを探す。

ニュース番組を見ながら、キッチンに立つ彼女の雰囲気を感じる。


この関係ももうすぐ終わるのだ。


いたたまれなくなった夏は立ち上がり、キッチンの彼女を後ろから抱きしめた。


緩く束ねた髪。
襟足に顔を埋めた。


「なぁに。やめてよ、今料理中。」

「嫌だ。やめない。」

頬に触れ、耳たぶを甘噛みした。

「やめてってば。もう、そういうの。」

そういうの、とは恋人として振る舞うすべての事だ。大事にしたいという想いも、思いやりのある言動もいらないと言う。勝手だ、と思うがそれ以上はなんとも思わない。

「ところで、夏。」

もう揺るがない彼女の心が解っていて、手をゆるめる夏に彼女が尋ねた。

「仕事、新しいとこに行くんでしょう。いろいろ決めるからって話し合い、ちゃんとしてきたの。」


結婚前の彼女の心遣いはけっこう痛い。結婚前なのは彼女だけで、夏にとっては別れの前だからだ。幸せなのは彼女で、不幸せなのは夏。そんなわかりきった事を何度も念押しされているようで痛い。

「いいだろ、明子にはもう関係ない。」

子供みたいだった。バツが悪くて俯いた夏に向けた明子の笑顔はいつも通り。

「まぁ、夏のことだし心配ないか。」

喧嘩しても、折れるのはいつも明子だった。

「泊まり込みなんでしょう。」

「ああ。」

彼女のいない家に帰るのは、やっぱりしばらくは寂しいだろうから。


「いい家族だといいね。」

「15歳の男の子ひとりだけ。」

「ええっ!なにそれ。どうして。」

「さあ、どうしてかな。
余命を宣告された少年と二人暮らし。」

「ええっ。夏、その仕事受けたの。夏が。」

なんでもどうでもいいって思ってる、夏が。
と明子は言いたいらしい。
恋人にも深くは執着しない、上辺だけの、夏が、と。