マー…?
中国語で、母…?
今度は芳郎の顔色が変わる。
「明花…?」
「芳郎…わたし、待っていること、できなかった…。」
目の前が真っ白だ。
いつも心にあって、辛いとき苦しいときに力をくれた明花。
いつか迎えに行く事をよりどころに今日までがむしゃらに生きてきた。
その明花にはもう、子供がいる。
芳郎が状況を理解するには、十分すぎる光景だった。
ふらふらと足元が覚束ない。
「明花…、もう一緒に、日本には帰ってもらえないんだろうか…?」
「一緒…、」
震えるように、小刻みに首が左右に振れた。
「…どうしても?」
今度は力いっぱい首を振る。
取り返せない、どうあっても戻れないのは時間という理(ことわり)。
悔やんでも、振り返っても意味を成さない。
芳郎は日本に帰る。
来た時と同じようにたった一人で。
その船を港で待っている。
遠く地平線は決して湾曲しているわけではないのに、隣り合う母国は破片も見えない。
この星は確かに丸いのだと思った。
丸く、いびつだ。
そんなことどうでもよいのだが、芳郎には途方もない大海原を見つめる他、できることはなかった。
船が霧笛を響かせて入港する。
あれに、乗らなければ。
この船が、15年前の、貿易船であったなら。
あの時、集落に60名以下であれば。
赤子が、もう少し遅く生まれていたならば…。
とりとめのない、たらればの思考。
事実を否定しつつも、その思考こそが今の状況を肯定してゆく。
帰らなければ。
芳郎は重い足を踏み出す。
さっきまで佇んでいた場所に未練を置き去りにして。
その未練を、拾い上げる手。
「芳郎っ…!」
長い髪を振り乱し、額に汗をほとばしらせ、呼吸を乱して。
「明…花…?」


