コーヒー溺路線

 

「今晩は、マスター」
 

 
「彩子ちゃん、御無沙汰だね」
 

 
「うん、なんだか今日はここでコーヒーが飲みたくて」
 


 
雨の降る夜だった。
彩子はいつものコーヒーショップでマスターと話し込んでいた。時計をちらりと見るともう午後十時を過ぎていた。
 


 
「彩子ちゃん、帰らなくて大丈夫かい。もう十時だ、旦那が待ってるだろうに」
 


 
先程からしきりに時計を気にしているのはマスターの方であった。彩子は黙ってコーヒーを飲むばかりで帰る素振りはない。
 


 
「いいのよ」
 


 
いいの、と彩子は呟いた。
半ば自嘲的な溜め息混じりの声だった。
 


 
「どうした、何かあったの?」
 

 
「何かあったわけではないの。ただね」
 


 
心底哀しそうな声で彩子は、最近靖彦があまり家に帰って来ないのだと言った。他に良い人ができたのであろうということも。
 

マスターは洗って消毒までしたいくつかのコーヒーカップを拭きながら、彩子の声に耳を傾けた。
 


 
「きっとね、もう駄目なんだと思う」
 

 
「駄目だなんて」
 

 
「ううん、解るのよ」
 


 
解るの、と繰り返し呟くと彩子はマグカップに入ったコーヒーを飲み干してまた黙り込んだ。
 

季節の変わり目だからか最近は雨がよく降る。
気付けば靖彦に出会ってもう一年が経つのだと彩子はぼんやり思った。