「松太郎」
「はい」
ふと呼ばれて振り返ると、松太郎を呼び付けた張本人の秀樹がいた。
秀樹は黙ったまま踵を返して奥の部屋へ進み始めた。松太郎は非常にゆっくりとした動作でネクタイを指で弛めながら、秀樹の後ろをついて行った。
そうして冒頭へ戻る。
「いやしかし、提携の話がなくならずに済んで良かったな」
「……」
全く嫌らしい男である。
松太郎は子供の頃威厳ある父親の秀樹をとても慕っていた。しかし大学やアメリカで経済学を学ぶうちに、いかに秀樹が嫌らしい人間であるかが身に染みて解った。
この皮肉った言葉がそれをよく物語っているものだ。
「まあ婚約もなくなった訳だ。あの富田彩子という女と会いたいならば会えば良い。間に合うならばな」
さすがの松太郎もこれは冗談として受け流すことができない。しかしここで感情をあらわにすることは、秀樹に対する何かに負けるような気がして嫌だった。
松太郎はギリリと奥歯を噛み締める。
「失礼します」
早急に頭を下げて部屋を出た。
もう元通りには決して戻れないのだという現実に松太郎は再び直面した。
一度目にその現実に直面したのは、彩子が俊平と社から出て行った時だった。
あの時は鈍器か何かで頭を強く打たれたような衝撃で目眩がした。あのような絶望はもう二度と味わいたくないものである。

