コーヒー溺路線

 

「彩子ちゃんが大学生の頃、よく言っていたことがあるんだ」
 


 
マスターはここでようやく松太郎にコーヒーを出した。立ったままでそれを見ていた松太郎はゆっくりとカウンターに座った。
 


 
「いつか溺れるような恋をするの。そういう人が現われたなら、私はきっとここへ連れてきてマスターに紹介するわ。そうだな、欲を言えばコーヒーを好きな人だといいな。私と同じ、コーヒーを好きな人」
 


 
少し幼さの残る大学生の彩子が言っていたのだ。マスターは今でも覚えている。あの頃は彩子がいつ男を連れてくるだろうかと日々焦燥に駆られていたのだ。
 

松太郎は眉尻の垂れ下がった情けない顔で湯気の立つコーヒーを見つめている。
 


 
「……」
 

 
「だから、俺は彩子ちゃんが結婚をしたと聞いた時に酷く驚いたよ。俺はまだ紹介してもらっていないぞってね」
 

 
「……」
 

 
「更には結婚式もしていないんだと言う。さすがにおかしいと思って俺は聞いたんだ。どうして籍を入れる前にここへ連れて来なかったんだと」
 


 
マスターは真顔で続けた。
どうやら笑い話にできる程の話ではないらしいことが松太郎には解る。
 


 
「彼はコーヒーを好きじゃないから仕方がないんです」
 


 
あの日彩子はそう言った。
マスターが続ける。
 


 
「おかしいだろう?そう言った彩子ちゃんは泣きそうな顔で笑うんだ」
 


 
おかしいだろう。マスターは繰り返す。
松太郎は黙るしか他ならなかった。
 


 
「それから少しすると彩子ちゃんは酷く落ち込んだ様子で、ある日もう無理なんだと零したよ。次にここへ彩子ちゃんが来た時にはもう離婚をしたあとだったな」
 

 
「そうですか」