立ち上がる術さえ失って初めて気付くのだ。自分は何も『見て』はいなかったのだと。
彼女はおもむろに立ち上がり、神がかった仕草で前を示した。小川から危険物と思われた黒いぶよぶよとした物体がうねり収束し宙へと舞い上がった。
ぶつぶつと声が聞こえる。
『お兄ちゃんはずるいよ。お母さんの欠片(かけら)ももらって。お母さんは風になってしまった。俺にはなにもない。ずるいよ。ずるいずるい』
『なら、お母さんの欠片(かけら)、やってもいい。その代わり約束だ。二度とそれを言うな』
『お母さんの欠片(かけら)……わあい、わあい!』
『その欠片(かけら)がもたらすものは、予想以上に重く苦しいものだろう。だが、私は常におまえの上を行く。忘れるな』
『やっぱりお兄ちゃんはずるいよ。俺にその反対ができないと思ってる。そんなのって、うん。やっぱり、ずるいや!』
『それを言うなと言ったぞ』
『それってなんだよ。わっかんないや』
『……』
『絶交だ! お兄ちゃんはお兄ちゃんの癖に俺のこと、そんな風に睨んでばかりいる!』
『恩知らずめ、二度と私の前に現れるな!』
アレキサンドラはいつも厳しい。
「失ったものの方が大きかったんじゃないか? 竜と蛇の子供としては、お守りと比べ、同じ境遇に育った相手とは」
「アレキサンドラ、意識が……」
アレキサンドラは王子を制した。その目はまるで何も見えてはいないようだった。
「闇へと帰るか?」
それは彼女の口から発せられた初めての呪いの言葉だった。



