サドルを直しながらオヤジは語る。
「その人はワシの言い値でこの自転車を買っていった。」
 私は高く美しく蘇ったサドルの魅力に心を奪われて上の空だった。
「しかしなぁ、次の日になってそのお客さんは買った自転車を返品すると言ってきたのじゃ」
「ふーん」
 私は高く美しく蘇ったサドルの美しさに感動し、さらに涙を流した。オヤジの話などもうどうでもよかった。
「悲しいじゃろ」とオヤジも、もらい泣き。「何故返したくなったのか、とワシは聞いたんじゃがその客はまったく語ろうとしない。しょうがなくワシは相手の言い値でこの自転車を買い取った」
 と、言いながらオヤジは隣に置いてある自転車のサドルを再度バチバチと叩き始めた。バチバチ、バチバチ、バチバチ。そして最後に力いっぱい叩いた。バッチーン!
 私は声を出して泣いた。ウォーン! オヤジは涙をグッと堪えていたが、結局堪えきれず、「うるさい! 静かに聞けと言ったはずじゃ!」と叫んだと同時に一粒の涙がサドルの上に落ちた。

「サドルを早く直してください」
 気になって仕方がない。
「ああ、すまんな。あの悔しさを思い出してつい熱くなってしまったようじゃ」
 結局バレてはいなかった偽千円札で私はその自転車を買った。
 自転車に乗る能力はないので手で押して帰ることにした。全力疾走。今度は一時間キッカリかかってしまった。ペダルが足に引っかかることがなければ五十五分で着けたはずだ。悔しい。悔しくて数日間ご飯が喉を通らないほどだった。もう自転車のことは思い出したくもない。あのオヤジも気持ち悪いし、この日の出来事のすべてを必死で忘れようと努力した。忘れるにはとにかく眠ることだと思って暇さえあれば眠った。その努力が実り、次第に自転車のことは頭から消えていった。