「ヨルン」
琴の音色の如き優しげな呼び声は、入いる隙間など無い狂気に満ちた大蛇の意識を、大きく震わせた。
もう消え失せていた筈のちらつく記憶と、込み上げる懐かしさと、愛おしさと。
…この奇妙な感覚が、煩わしい。
身体の芯にチリチリと走るむず痒い感覚を振り払う様に、大蛇は身をよじって目茶苦茶に暴れ回った。
狙いなど最初から定めていない鋭い風の刃が、縦横無尽に飛来する。
それらは針山の一つを根元から粉砕し、厚い積雪に大穴を空け、吹雪を斜めに切り裂き、凹凸だらけの地上を這って…。
「―――…イーオ!?」
大地に沿って平行に走るその一つが、イーオの元に直進した。
いち早く気付いたイブが声を上げ、白いつむじ風を掻き分けて再度彼女に目を向ければ、木製の車椅子の破片が飛散するのが一瞬見えた。
風の刃によって脆くも砕け散った彼女の車椅子を、一時呆然と眺めるイブだったが…その直後、すぐ脇に立つ針山の天辺にジンが音も無く降り立った。
反射的に彼に向かって振り返れば……相変わらず無表情な彼の背に、笑顔のイーオが当たり前の様におぶられていたのを見て、イブは安堵の息を吐いた。
「…もー…凄くびっくりしたじゃんか…。…ジン、あんたムカつくけど、まあまあナイスプレイ」
「………ありがとう御座います」
何とも不愉快そうな表情で舌打ち混じりに親指を立てられ、あまり褒められている様な気がしないが、ジンはとりあえず礼だけは述べておく。
ジンの肩越しによいしょと顔を覗かせ、イーオは無残にも散乱してしまった愛用の車椅子の残骸を見下ろした。
「ちょっと呼んだだけであの様子じゃあ…やっぱりあの子、本能的に私に近寄りたくないみたいね。…私に近寄ったら危ないって分かってるみたい。……それにしても…あらあら、私の唯一の足が壊れてしまったわね。年期物でがたついていたし…まぁちょうど良かったかしら?」
ご苦労様ー、と呑気に手を振るイーオに半ば呆れつつ、イブは再び剣を構え始める。
飛び退くリストとトゥラを物凄い勢いで追い掛ける大蛇を目で追い、体勢を整える。


