一瞬だけ頭に浮かんだ一人の男の顔を振り払う様に、長老はローアンに向かって跳躍した。獲物目がけて滑空する鷹の如く、空を切る白い巨体。瞬きをする暇も無い僅かな時間で迫るや否や、構えられていた剣ではなく…その太い腕が伸びてきた。
―――速い。
今までとは比べものにならない程の余りにも速い動きに、ローアンは怯むよりもまず先に、何故か笑ってしまった。
これが、人間の速さだろうか。
いや、違う。これが本当の、狩人だ。本物の、百獣の王の。
(―――…震えが、止まらないな…っ…)
これは恐怖か、それとも歓喜か。強い者と向き合うと、どうしても自分の中で眠る獣めいた闘志が頭をもたげる。
こんな姿、子供には、見せられない。
“闇溶け”が、遅れた。
闇に同化出来ず、しっかりと芯が残っている腕を、長老の大きな手が掴んだ。押しても引いてもびくともしない、有無を言わせない強大な馬鹿力に引き寄せられたローアンの目前に、刃の切っ先が飛び込んできた。
串刺しにするつもりか。
逃れようにも、腕を掴む長老の手を女一人の力で払うことは不可能。限られた範囲の中で避けるしかない。死が目と鼻の先にまで迫る寸前、ローアンは反射的に身を捩った。
ぐん、と伸びてきた真っ直ぐな白刃が、ローアンの色白の細い首筋のすぐ横を通り過ぎていく。刃に触れた数本の黄金色の髪が、はらりと宙を舞った。
「黙って、いられるか…!」
掴まれた方の腕に、ローアンは意識を集中した。…その途端、ローアンの華奢な腕は漆黒の靄となり長老の腕に纏わりつき……まるごと、呑み込んだ。
「………っ…!?」
長老の片腕は闇に溶け、あっという間に無くなった。腕が、無い…と思うと同時に、頭の天辺から爪先の全身に走る…気味の悪い悪寒。
芯から一気に冷え、硬直してしまった己の身体に、長老は戸惑いを隠せない。


