自分を溺愛する父は、一度も怒ったことなどなかった。だが、屋敷に帰ってきた父は、生まれて初めてアシュに凄まじい罵倒と殴打を浴びせた。
たった一度の殴打だったが、唇は切れ、揺らぐ意識の頭上で星が散った。
冷たい廊下に倒れ込んだまま、怒りに震える父の言葉を聞いていたが、何も耳に入って来なかった。
頭は、真っ白だった。
真っ白な向こうに、絶望という名の、忍び寄る闇が見えた。
声も出ない。
涙も出ない。
赤子の父親は誰だ。ふしだらな女め。この娼婦め。誰がお前を育ててやったと思っているのだ。育ててやった恩を忘れたのか…。
…不協和音。
父の声と、悪魔の嘲笑とが交差している。絶望に打ちひしがれる中、アシュはそっと指先で口を拭った。
切れた唇の真っ赤な鮮血が目に入った。
幾筋もの傷が刻まれた自分の手首に視線を移した途端、内なるもう一人の自分が、無感情な声で呟いた。
―――…ああ、死んでしまおう。
『―――…育ててくれだなんて言った覚えはないわ!実の親じゃないくせに…!!』
…死のうと思ったのに。………自室に走り、直ぐさま手にしたナイフは、呆気なく取られてしまった。
世の中の汚い事、醜い景色、耳を塞ぎたくなる様な声など露知らず、温かい産着に包まれて眠る我が子に縋り付き、ひたすら泣いた。
部屋の外から一歩も出させてもらえなくなった。
日常生活に必要な事は、全て召使達がやる。
何も出来ない人形同然の自分は、何も知らない赤ん坊と二人きり。
もし赤ん坊とも引き離されていたら、舌を噛み切っていたかもしれないが。
………無垢な寝顔を見ていると、何もかもどうでもよくなった。


