「仁央様…」
あの日は、春の雨が降っていた気がする。
あの御方は入内を控え、御身を大切にしなければいないことは私も重々承知していた。しかし堪えきれるほど私は大人ではなかった。
「ああ」
その消え入りそうな吐息を傍で聞くことを、あの眼から零れる美しい宝玉を拭うことを、私がどれほど心待ちにしていたかを誰が解るというのか。雨は外の音を隠し、あの日あの場所には私とあの御方しかいなかった。
いや。
あの御方の猫がいた。闇の色と同じ色をした猫。部屋の隅にうずくまり、じっとこちらを見ていた。
夜のうちに雨は止み、明け方の月は霞の向こうにあった。
そしてあの御方は宮へ入られた。あのおぼろ月のように、手の届かぬ人となってしまった。
ある日、私におとない人があった。聞けば、あの御方の使いだという。
「宮様は九重でのお暮らしにも慣れ、お健やかでいらっしゃいます。藤和様には以前お世話になったから、と」
この人は私達のことを知らないのだ。
「宮様よりお使いを頼まれました。この子を」
そう言いながら、その人は荷物を開いていく。そこには布にくるまれた、
「猫?」
「はい、宮様の飼われている猫が、先日子猫を生みました。ですが、この子以外は死んでしまって…」
「その子猫を、私にどうせよと」
「お世話をして頂きたいのです」
「世話?」
私の声が不快に響いたのか、眠っていた小さな猫は目を覚まし、みゃあ、と小さく鳴いた。
「はい」
「私は猫の世話など…」
「藤和様」
使いは懐中より文を出した。



