出来るだけ静かに素早く身支度をしてドアノブに手をかける。ドアに鍵をかけて、そのまま新聞受けに合鍵を入れた。

 この音に気付いてあなたが目を覚ましませんように、そう祈りながら。

 カタン、とよく響く、しかし思ったより軽い音を立てて鍵は底に落ちた。その様はまるで私たちのようだと思う。落ちるところまで落ちたとして重みのあるものにはならず、でも穏やかな日常をを脅かすだけの質量を持っている、そんな関係。

 あなたは優しい人だから、どうか可愛くて素敵な女の子と幸せになってね。暗い夜に寄り添うだけじゃない、朝日を二人で迎えられるような、そんな健全な幸せを手に入れてね。これが、私からの最後のお願い。

 私は新聞受けに背を向ける。もう振り返る事は出来ない。鍵を失った私にはもう、あなたと眠るベッドも、二人で買った作りかけのジグソーパズルも、お揃いの安物のコップも、触れることはおろか目にすることも出来ない程、遠く隔離された空間のもの。私の生きる場所は薄暗い街灯と明けきらない陽に浮かび上がる階段の先にある場所だ。冷えた手すりを握り、階段へ、確実に一歩踏み出す。

 道に出ると、思ったより冷たい空気に身がすくんだ。すぐ傍にあるあの部屋のベッドの中のあなたの隣に想いを馳せる。こことは違う、暖かい場所。

 でももう戻れない。

 深く息を吸い込み、吐き出す。肺が凍りつき、また溶けるイメージを浮かべながら。
 これがあたしのいる世界だ。どんなに孤独で冷たくても、ここじゃないと私はうまく息が出来ない。
 あなたの側は居心地が良すぎるから、住みついてしまったらきっともう戻っては来られない。それは昔聞いたおとぎ話、甘い桃源郷の世界。

 だからきっと、これでいい。


「さようなら」

 口にしかけて、やめた。せめてもう少し、夢の残滓に甘えていたくて。



《おわり》