満腹になるまでしっかり食べて、手についたスープをペロペロと舐めとるのを男はただにこにこと見詰めているだけだ。
もう触ろうとしてこないし、喋りもしないので、煩わしいこともなく、満足行くまで食べれた。


食事が終わると、何が目的なのか分からず不安になってくる。


こんなに静かで穏やかな時間は初めてだ。
その分、倍以上に苦しみが待っていそうで、落ち着かない。

ぺろりぺろりと手のひらを舐めながら、周囲に目をやる。

バケネコの回復力なら、昨夜負った傷くらいなら、そろそろ動ける筈だ。
この部屋唯一のあの扉から外に出て、此処から逃げる。
それか、カーテンの先に鉄格子無しの窓があると信じて向かうか。
主人の元に帰るかどうか此処を出てから考えよう。


ただ問題は、どちらに行くにせよ、泰然と構えるこの男が全く隙がなく動けないのだ。


逃げ出そうと足を動かしたら、先程のように真後ろにいた、なんてことになりそうで動けない。

暴力による恐怖は骨の髄まで染み込まれているので、それを引き出すようなことは不用意にはしたくなかった。

どうしよう、と思案していると、男が口を開いた。

『お腹は一杯になった?』

こくりと頷く。


『じゃあ、少し話しても?』


もう一度、頷く。
今は逆らわない方がいい。
もう少しして油断させて逃げればいい。

『君は、蠧(キクイムシ)家にいたね』

男の口から出る筈もない言葉に驚く。
逃げた方がいいのかと体を浮かせる。

『大丈夫、落ち着いて。傷付けたりしないから』

男の言葉に嘘はないと、そわそわしながらも座り直す。

『君は禁呪で育てられた、暗殺専用のバケネコだったね』

質問ではなく、確認だった。
とりつくろったとしても、無駄だろうと、こくりと頷く。


『昨夜の梁(ハリ)家が初めての暗殺だった』

ハリ家の名前は主人から聞かされていないが、昨夜襲った屋敷の事だろうとこれもまた、頷く。

『禁呪も、勿論暗殺も、違法なんだ』

キンジュも、イホウという単語も聞いた事ないが、きっと悪い意味なのだろう。

悪い事をしているというのは、自覚していた。


ただ、なるべく考えないようにしていたから、その事実を突きつけられると苦しかった。
昨夜、アタシが襲った人達はどうしているだろう。
悪い事をしてアタシは捕まったのだろうか。


アタシは、悪い子だと知っていたけど、改めて自覚すると辛かった。
アタシは汚れてて、早く死ななくちゃってずっと考えてきたけど、いざ死が間近になると怖い。


昨夜以上の痛みと苦しみなのだろうか。

浮かぶ事は暗い事ばかりで、考えていと、うっすらと涙が浮かんできた。


『ごめん、泣かないで。泣かせたかった訳じゃないんだ』

音をたてて椅子から立ち上がり、慌ててアタシの足元に膝まづく。

『泣かないで』

頬に近付く手に、叩かれるのかと身体を小さくして目を瞑って衝撃に耐える。

『ごめん』

アタシの反応に困ったように顔を歪めて、やり場のなくなった手を空中でさ迷わせてから、伺うように、ゆっくりと膝で揃えられた両手の上に落とされる。


慰めるように丁寧に擦られる。

優しい触れ方に、振り払えなかった。
男の固かった表情が少し和らいだように感じた。




暫くして落ち着くと、また話が再開された。

『蠧家は取り潰されるよ。当主はこれから裁判だけど、死罪かな。よくて極地で幽閉だ』


禁呪の無許可使用は王家への反乱意思と捉えられるから、罪が重いんだ、と続いた。


もっと話していてくれたと思うけど、アタシはあまりよく聞いていなかった。


主人が死ぬ。



なら、その使い走りのゴミも死ぬべきだ。




『……あいつ等には二度と君の姿も、声すら届かないようにするよ』

男の声は届いても、中身は全く頭に残らない。




『アタシ、いつ殺されるのかな……なるべく、痛くないといいな……』

でも、アタシ沢山悪い事したから、そんな事許されないか。


ぽつりと、言葉が零れた。


涙は止まっていた。


『なるべく、早いといいな……』



そうだ、死んじゃダメって言われて、痛いのも全部我慢してきたけど、殺されるのは仕方ないかな。
それが済んだら全てが終わるんだよね。

暗い穴蔵の彼処にはもう戻る事はない。

お父さんとお母さんにも会えるかもしれない。

アタシ、悪いことしたから一緒のとこ行けないかもだけど、一目だけでも、会いたいなぁ。

そう、理解すると久しくなかった安堵と安らぎを感じた。





『死なせないよっっ』


最初何が起こったのか分からなかった。

自分の幸せな考えに酔いしれ、自暴自棄になって、判断力が無かった。
気が付いたらぎゅっと抱き締められていた。
座ったアタシを抱え込むように、包まれていた。

『君を死なせるなんて絶対させないっっ、僕と、僕とずっと一緒にいるんだっっ』


男は立ち上がっていて、お腹の辺りがちょうど顔に押し付けられた。
耳に届く切羽詰まった声に驚く。

何をこの男は焦っているのだろう。


『リリー、やっと君に会えたのに』