水とコーヒー

(言葉には力がある……か……)

ひとりごちながらアパートの階段を登る。いままでのような絶望感も虚無感も不安感もない。疲労感はあったが、それもまたこのあとぐっすり昼過ぎ、いや夕方まで眠ればなくなるだろう。

本当はもう一つ先輩に聞きたいことがあった。

あの瞬間、彼女が光に包まれて消え去るとき。先輩と僕とに順々に頭を下げた彼女は、僕に対して、とても複雑な笑顔を見せた。そしてそのときに、口元が何かを伝えようと動いた気がしたのだ。

だけど僕には、彼女の言葉を聞き取る“個性”もなければ、読唇術が使えるわけでもない。だからそれが聞こえたであろう先輩に聞いてみたかったのだ。でも聞かなかった。

なんとなくだけど、僕にもそれはわかったからだ。そしてそれでいい、そう思ったからだった。

あのとき彼女は僕に三つの言葉をいったのだと思う。


《ごめんなさい。ありがとう。さようなら》


アパートの鍵をあけると、靴を脱ぎ捨て一目散にベッドに倒れ込んだ僕は、一気に押し寄せてきた眠気に身を委ねた。

まどろみの中、僕は口の中で彼女と同じ三つの言葉を返すと、とても豊かな香りの温かいコーヒーの夢を見ながら、数ヶ月ぶりの深い眠りの中におちていった。


<了>