亡國の孤城Ⅲ ~バリアン・紲の戦~


それは当たり前の様に聞き慣れた言葉なのに、聞き慣れない声で。

鈴の音に似た優雅に空気を揺らすその音色が、煩いくらいに鳴っていた耳鳴りをピタリと止め。

無音の中で震え、堪えられぬ孤独にただ目を瞑っていたライに、そっと差し伸べられた手の様な、そんな。




「―――サ、ナ…?」

乾いた眼球が突然息苦しい世界を鮮明に映し出した途端。視界の先に佇むシルエットが見え、思わずライの口はその少女の名を紡いでいた。

闇夜の中でも、その黒を通り越した漆黒の長い髪は綺麗に映えていた。相変わらずの真っ直ぐとした穢れ無き眼差しが、ライを見詰めている。大きな黒い瞳が瞬きで一瞬隠れ、切り揃えた前髪を傾けながら小首を傾げ……小さな赤い唇が、また一度、確かに音色を奏でた。

「―――ラ、イ…」

しっかりと、自分の名を呼ぶサナ。
その声が、冷たくなった鼓膜を揺らし、腹の底に居座っていた大きな石のような重みがスッと無くなっていくのを感じた。

同時に、サナの声に気付いたバリアン兵士が高々と掲げていた剣を下ろし、その視線をライから背後のサナへと移した。
男の剣の切っ先が、サナへと向けられるのが分かった。あの獰猛な、恐怖しか与えてくれない男の目が、サナを映している。サナを、見ている。サナに、歩み寄っていく。
自分に向いていた死が、サナに狙いを変えている。

―――やめろ。


「……止め、ろっ…!」

気が付けば、嗄れていた自分の喉からとんでもなく大きな叫び声が出ていて。
あれほど震え、動く気配の無かった身体が、嘘の様に機敏に動き。
なにも考えず、考えも無く、ライの身体は痛みを忘れ、がら空きになっていた男の背中に体当たりしていた。

湧き水の如く溢れ出していたあの恐怖が、何故だかこの瞬間、ぴたりと止まったのだ。
代わりに溢れ出したこの衝動が何なのか、今のライには考える暇も無かった。ただ……男の意識がサナに向いたのが、何故だか無性に許せなかったのだ。


「――ライ君!」

スーツケースを抱えて闇夜の奥から走ってきたユアンが見たのは、ぼんやりと佇むサナと、その奥でもみ合う二人の影だった。
直後に聞こえてきた誰のものとも知れない呻き声にハッとし、ユアンはすぐさま走り寄ったが…そのシルエットが鮮明になると、ユアンの足は止まった。


赤い砂漠に、赤が流れていく。
苦しげな呻き声と表情を目下に、その厚い胸に何度も何度も剣を下ろしている姿。単純で、単調な機械的な動作は、ユアンの前でその青年の身を赤く返り血で染めていっていた。

何度目か分からない振り下ろされようとした剣をユアンが掴んだ時、ようやくライは、我に返った。