『ではコーヒーを頂きます』と答えて頭を下げた。彼女は耳は聞こえるが声がだせない。生まれつきではないらしいが、詳しい原因は知らない。僕は独学で手話を勉強し、今では完璧に彼女の言葉を理解できる。コーヒーを二つ運んできた彼女ととりとめのない話に会話が弾む。昨日、一番下の健太という男の子が初めてトイレに行けた事、一番年上の美希が携帯電話を欲しそうにカタログをこっそり見ていた事、先月の電気代が2割くらい高くてショックだった事…。僕にとって、いつものこの時間が一番楽しく幸せな時間である。暫くすると眠そうに挨拶しながら子供達が起きてきた。上から美希、昭夫、可奈、桜、達郎、奈々子、元、真澄、弥恵、隆一、育美、恭一、真司、ちあき、健太の総勢15人の登場である。今まではフランス映画のワンシーンの様だった広間が一変し、ヘビメタバンドがおもちゃ箱をひっくり返ながら演奏している脇に雷が落ちた様な騒がしさになった。僕はコーヒーのお礼を言って帰途についた。僕の見解では池谷さんも僕に気があると感じている。今日も池谷さんは可愛かったなぁとか、クリスマスはどうしようとか、あれこれ考えながら牧場に着いた。ログハウスに入るとソファに寝そべり足をテーブルに投げだしてテレビを観ている主の娘がバカ笑いしている。入ってきた僕に気付き『おう!お帰り!』と言って足をあげた。僕はため息をついて『優子さん、いつも言いますがその格好はやめましょうよ。女性はもっとおしとやかであるべきです』といつもの様に注意する。優子さんはここの牧場の一人娘で僕より3つ下の大学生だ。父親の佐原陽一は働く事が嫌いな少し太った、人の良いおじさんである。母親は優子さんが小学生の時に離婚して以来会ってないらしい。優子さんは頭をボリボリ掻きながら『まったくうるせぇな…。男が細かい事言うんじゃねぇよ。しかも童貞のくせに』ときたもんだ。『な、な、何を言ってるですか!何を根拠に…!』と、つい声をあらげてしまった。優子さんは『じゃ、朝飯ヨロシク!童貞君!』と僕の肩をポンッと叩いて部屋を出て行ってしまった。まったく…。当たっているだけにツラい…。