飼い主ですら、「今日は機嫌が悪いな。」その程度の認識。
いよいよ距離が近づく。
互いに目を合わせることも無くすれ違った。
「グルルルル…。」
ワンッ!の一吠え。
数瞬の出来事。
犬が飛び、綱が飼い主の手から離れ、俺と詩織ちゃんは犬の方に振り向く。
いや…、正確には俺は詩織ちゃんに突き飛ばされ、倒れながら犬の方を見た。
詩織ちゃんは俺を突き飛ばして、歯を剥き出して向かってくる犬に蹴りを入れた。
詩織ちゃんの蹴りをもろに頭に喰らった犬は少し可哀想な高い声を上げて地面に横倒しになった。
その光景を呆然と見ている犬の飼い主と俺。
短い沈黙。
詩織ちゃんが鋭い口調で、
「出る!」
倒れた犬から黒いモヤモヤが出て黒い球体を形作った。
「犬までクロちゃんにやられたのかよ!」
「こんなのアタシも初めて見たわよ!」
詩織ちゃんはそう言いながら肩に掛けてあるケースから木刀を抜き、ケースを俺に投げ渡す。
クロちゃんは欠伸をするように大きく口を開けると、次の宿主を探すようにその場でグルリと一回転し犬の飼い主の方を向いて止まった。
「ダメッ!」
詩織ちゃんは木刀の先を斜め下に向けて構えクロちゃんに突進する。
詩織ちゃんの叫び声と同時にクロちゃんも大きなギザギザの口を開け犬の飼い主に襲いかかる。
「何なんだ君は!止めろ!!」
犬の飼い主にはクロちゃんが見えて無いようで、詩織ちゃんに向かって叫んでいる。
「届けぇっ!」
詩織ちゃんは木刀を振り、クロちゃんは牙をむく。
が、詩織ちゃんの木刀の一撃はクロちゃんを僅かにかすめただけだった。
クロちゃんは犬の飼い主の頭に喰らいついた。
「あぁ…っ!」
現実には聴こえなかったけれど。ガブッ!と聞こえたような気がした。
「なんだよこれ…。気持ちわりぃ…。」
俺は思わず声に出す。
犬の飼い主の首から上でクロちゃんがモコモコと蠢いているのだ。
蠢きながら徐々にゆっくりとクロちゃんが小さくなっていき、犬の飼い主の顔が現れた。
「お前ぇ…!俺の犬に何しやがる!」
さっきとは明らかに違う犬の飼い主。
「クロちゃんに取り込まれたのね…!」
詩織ちゃんは木刀を構えて睨む。
「文句があるならかかって来なさいよ!」
犬の飼い主は狂気の目を詩織ちゃんに向け、殴りかかる。