揺らぐ幻影


ベビーピンク色の表紙にハートがあしらわれている本となると、

ますます燃え上がるのが恋心だ。

正統派なバレンタイン、そんな印象を受ける。

まるでピアノの鍵盤を順にドレミでなぞるような王道さが漂っている。


初めて契約が結べた新入社員のようにぺこぺこお辞儀をし、結衣は目一杯感謝を込めた。

そんなオーバーリアクションの彼女を落ち着かせるためか、

チャイムが子守唄のように鳴った。

予鈴本鈴、音に従う辺りE組の真面目さが窺える。


  頑張ろ、緊張

元気いっぱい椅子をひいて結衣は自席に腰掛けた。

ワックスが剥がれた床は、こんな調子で力任せに椅子を引きずった跡が黒ずんでいる。

普段からお行儀的なことに気をつけないと、躾の無さが浮き彫りで、

食事の際にお皿をひきずる癖がついたり、迷い箸をする癖がつくのだろう。

最近結衣は物を拾う時に腰を曲げるのではなく、きちんとしゃがむことを覚えたレベルだ。


背筋を真っ直ぐに伸ばし、レシピ本を机に広げる。

一ページめくるだけで紙面越しに広がるのは、女の子らしいキュートな感性で、

ケーキ屋さんの前を通りながらショーケースを覗き込むような、

ワッフル屋さんの出来立てを知らせる鐘が鳴るのを聞くような、

クレープを食べている女子高生とすれ違ったような、

甘くて幸せをくすぐる、自然と笑顔になれる恍惚だった。


  かわいーこれは可愛いっ

  嫁にしたくなる、落ちるよ

中学生男子がグラビアアイドルを見るように、必要以上にニヤニヤしてしまう。


お菓子作りは性格が表れる、結衣はそう思う。

二グラムオーバーしたのはドンマイとお構い無しのおおざっぱな人や、

バニラエッセンス少々の量をしつこく気にしまくる几帳面過ぎる人、

泡立てる時に疲れた疲れたと煩い我慢の足らない人、

ひょんな中身が知られるツールになる。


結衣の場合は、やはり何回も何回も分量を確認する癖に、大さじの擦り切りはしない適当主義がバレる。


昨日交わした近藤とのメールは、彼女をにやけさせるには威力十分で、

ふわふわしたオーラを解き放つ少女は、

周りから隔離されたように一人お花畑の世界にトリップしていた。