揺らぐ幻影


赤いカーブ、黄色いライン、白い点線、床に貼られたシールは何を示しているのか。

夏休み前に剥がれかけていた青いシールは、黒ずみを残し姿を消していた。


一つの進行方向に女子生徒が懸命に走る中、

それとなくボールを追うような感じで早足で歩くのが結衣だ。


休憩中の近藤洋平は友人らと窓の外を眺め、こちらに注目していないと確認し、

好きな人に走ってる姿を見られるのは照れ臭いからホっとした彼女は、ちょっとだけスピードを上げた。

ホッペのお肉が揺れていたら格好悪いし、前髪が後ろに流れて変な形の眉毛が見えるのは恥ずかしい……といった乙女心は誰しも持っていたことだろう。


後ろ頭もカッコイイなんて幸せを感じていたけれど、

愛美からパスされたボールを受け取った瞬間、先程の冷や汗の件を思い出し、気分が沈んだ。


  バレてんのかな?

  どしよ

手から離れた球を見届けた結衣は、体育館シューズの底をぴったり床に貼付けた。


……――不安になる。

好きな人を公言することは学生にとって死滅行為であり、今後の生活に危険が伴う。

『○○って○×狙ってるらしいよ』と、一人が口にしたが最後。

生徒全員が結束し噂話は学校中に知れ渡る――本人にさえ。

そして風説の中で『無理でしょ』『身の程知らず』など、不本意に評価されてしまうのだ。

そうして、実るはずの恋も叶わなくなることもある。


  そんなの嫌

  ひっそり片思いさせてよね

見えない恐怖は明日に起こりうるリアル過ぎて、あまりの嫌気にきつく唇を噛んだ。

興味本位で騒がれ、恋心をネタにされるのはごめんだ。


どうして女は人の色恋沙汰に無関係な癖にいちいち意見するのだろう。

お節介ではなくただのやじ馬だから、余計に対処のしようがないように思う。


同じ学年、隣のクラス、それくらいしか情報がない近藤洋平の後ろ姿を眺めると、

はっきりと心の声が聞こえる。

誰がなんと言おうと結衣は彼が好きなのだ。
ふわふわの髪に手を通したいくらい好きなのだ。


賑やかな生徒、言い換えるなら喧しい生徒となる青春時代を大切にしたい。

床下の窓から入ってくる運動場の号令が、妙に耳についた。