己の教室に向かう生徒たちの波は、不気味な光景に思えなくもない。
同じ服を着た軍団はなんだか異様に感じなくもない。
けれど、そこには大好きな人が居る。
「メール! ありがと、あの、おはよ!」
少しくたびれた外履きから名前を落書きしている上履きスリッパに履き替える近藤に、
朝っぱらから結衣は緑のおばさん並に溌剌とした声をかけた。
おはようは魔法の言葉だ。
なぜならバスで乗り合わせた他人にも、名前も知らない近所の人にも、
誰に言っても不自然にならない万能な単語だからだ。
意味を持つようで全く意味を持たない定例句でもあり、
子供からお年寄りまで面識のない人に言っても通用するオールマイティな呪文。
従って、女子生徒が隣のクラスの男子生徒に乱用しようが、さほど問題はないのである。
「ん? ……ああ、うん。はよう」
くしゃりとした髪を耳にかけながら近藤が振り返った。
……可愛い、耳
前に立った耳は赤ちゃんみたいに可愛くて、彼の容姿の中で好きなパーツの一つでもある。
扉がついた靴箱は冷たい印象を受けるのに、角が丸く見える不思議。
背中ばかり見ていた結衣は、いつしか大好きな人を振り向かせることが可能となった。
素晴らしいまでに目に見える変化ではないか。
「えへ、あは、市井くんもおはよ」
無論、おはように意味を作れるのは気持ちを込めている時のみで、
彼女のように大好きな感情を伝えるために、
好きですの代わりにおはようの音を奏でる場合だけだ。
「田上さんおはよう」と市井が零す。
ひとしきり英語の教科書にあるマニュアルをなぞり終えると、
あっさり彼と彼の友人に手を振り、結衣は背中を見送ることにした。
仕方ないじゃないか。
会話を欲張りたいのに、近藤は彼女の舌を静止させる魔法を使うらしく、
いつもだんまりか薄ら笑いになってしまう。
一歩踏み込んだお喋りはまだまだ難題だった。
分かったのは、やはり背筋をピンと伸ばしている爽やかなこと。



