揺らぐ幻影


五時間勤務の結衣は労働基準法とかいう難しいことは知らないが、十五分だけ休憩がある。


キッチンの人にアイスやジュースといった賄いの許可を貰って、

スタッフルームで携帯をカチカチいじるのが習慣だ。


  宿題あったっけ、

  だるだるー

カロリーが気になり、アイスはやめてサラダにした。

お気に入りのメロンソーダをやめて烏龍茶にした。

好きな人がいると、夜の八時以降に食べ物を口にする行為は、タブーで罪な気がしたからだ。

まったくなんて微笑ましい乙女心なのだろうか――自分が男なら自分を選ぶ、なんて痛い発想に一人失笑した。


ゴミ当番やだなーと、シフト表にかかれた仕事の振り分けに文句を垂らす。

ただのサラダでもクルトンやオニオンフライを散らしただけで『っぽく』見えると毎回思ってしまうのは、

ハイカラとは程遠い古臭い人間せいなのだろうか。


何気なく開いた携帯電話に浮かぶ文字を読破する前に、結衣は思わずお茶を噴き出し噎せた。

  っ、!うそだ


息ができなくて雑音を響かせ苦しむ少女を労るどころか爆笑しながら、

丸椅子に座っていた八時上がりの大学生は立ち上がり、「お疲れさま」と、帰っていく。


《市井は彼女居る。近藤は居ないって》

着信メール、差出人は大塚だ。


  やだー、やばい!!

  えー、嘘、うそ

  彼女ナシ?!


手が震えて興奮した身体は言うことをきかない。

咳を止める操作よりもにやける機能を起動させる。


近藤洋平には彼女が居ない。

携帯電話の液晶画面の前に、煉瓦色の髪をしたあの人が見える――なんて危ない幻覚だ。

不気味だと自重したいが、残念なことに片思いガールは常に他者を不審がらせる薄ら笑いを浮かべることを義務付けられているのだ。

例外なく結衣もきちんと唇をゆるませる。


「大塚から来たっ! ぽこりん彼女居ないってー信じらんない、かっこいいのに」

すぐさま愛美に電話をかけると、一コールするかしないかで出てくれた相手に鼻息荒く訴え始めた。

恋は囁くのではない、叫ぶものだ。
格言がないなら今ここで世間に提唱しておこう。