揺らぐ幻影


いっそ辞書を借りパクしたい気持ちでいっぱいだ。

一万円払うからくださいと頼めば、たちまちコレクション女と後ろ指をさされるから言えないけれど、

近藤の辞書があるなら、苦手な勉強は楽しくなる気がした。


「ありがとう」


F組に入った結衣は周りを意識しないよう、ターゲットのみに目線を集中させた。

少しでも範囲をずらすと、そこに広がるのは恐らく可愛いオンナノコたちで、

そうなると、結衣はたちまち居心地の悪さに逆走していることだろう。


「あ、うん。はいはいっと。了解です」

淡々と営業スマイルを向ける近藤に、結衣一人だけがいっぱいいっぱいになってしまい、

ありがとうさえ声が震えて格好悪いなと凹んだ。


一方、相手は平然と言葉を発するのだ。


――彼には分からないのだろうか。

借りた物は返す。
当たり前のことでも、どれだけ勇気がいるか分かっているのだろうか。


  ……。

そんな社交辞令な笑顔は嫌だ。
おざなりにマニュアルをなぞった感が、特別視されていないのだと悲しくなる。


「、えっと……」

こんなに結衣は心臓がおかしいのに、頭皮が汗で湿りそうなのに、近藤ときたら乱れた様子はない。

それは意識されていないということで、なんだか泣きたくなった。

彼の態度は、まるで大塚に接する時の自分みたいで、辛かった。

何も深読みをせず、その場限りの接触で、明日には忘れる事柄で、そんな関係性がむなしくなる。


なぜ彼は分からないのだろうか、例えば一言。

なんでもいいから一言なにか声をかけてくれたなら、こちらは幸せだというのに。

なんでもいいのに。
なんでもいいのに何も言ってはくれない。


  ……。

せっかく話すきっかけを作ったのだから、すぐに教室に帰るのは勿体ないと里緒菜がアドバイスしてくれた。

愛美も『優しいから惚れますよ』くらいは冗談をかませと助言してくれた。


経験はなくとも知識はあるため、結衣だってお喋りをしなければチャンスを逃すことくらい承知だ。

従って、自分がしなければならないことくらい理解している。


しかし――……