牛がのんびり草を食んでいる。幸の島の東海岸部の草原は緑色に輝いていた。海岸の白砂を初夏の日差しがまぶしく射ている。この豊かな自然は何時まで続くことだろう。
松山礼司は昨年飼いはじめた三十二頭の和牛を見ながら、そう思った。
牛を飼う昨年まで、礼司は大阪で建築資材を販売する会社を経営していた。
リーマンショックで建築中のマンションが建たなくなり、資材が回収できなくなってから経営が傾き、折からの建設不況で会社を畳むことにした。羽曳野市にある家、土地を売り払い幸の島の畑を買い求め、子牛三十二頭とともに、半ば自給自足の生活を始めることにしたのだ。
礼司に子はない。妻は経営悪化の最中に体を壊して、心臓病で一昨年なくなっている。
五十路を超えたころから、都会の喧騒を厭うようになり、妻の死を転機に島への移住を本気で考えるようになった。
そして、昨年、子牛とともに幸の島へ渡ったのだ。勿論、当時、幸の島への基地移転の話などさらさらなかったのである。