「おっと、いけない」

昔の思い出に浸っている場合ではないことに気づいた那智は文庫本を本棚に戻した。

目覚まし時計に視線を向けると、
「ヤバい、遅刻しちゃう!」

時間がギリギリに迫っていることに驚きながらも、那智は会社に行く準備を始めた。

クセのない胸元まである黒髪を、黒いヘアゴムで1つに束ねた。

眉を描き、唇にリップクリームをつける。

横長の黒ぶち眼鏡をかければ、お局様の完成だ。

那智は29歳、職場では俗に言う“お局様”と言う立場の人間だ。

同期の子たちはもうすでに寿退社してしまったため、今では後輩の人間の方が多い。

「――後1年で、私も30代の仲間入りか…」

那智は呟くと、やれやれと息を吐いた。