「紗甫(さほ)だわ……」

「お行きなさい、早く!」

 怒鳴り声に弾かれたように、彼女は走り出した。その背中に声を掛ける。

「もう二度と、ここに来てはいけませんよ──」

 夫人は首だけで振り返り、遠慮がちに微笑み礼を言って去って行った。その後姿を、気取った所のない人だと、意外に思いながら見送る。

──商家の出という話だが、そのせいなのだろうか。

 猫はすぐに見つかった。奏天楼の廊下を堂々と歩いていたらしい──そう報告を彼は使用人から受けた。
 丁重に持ち主に返すよう指示を出して、ほどなく伝言でお礼が返ってきた。それで解決。
 もう二度と会うこともないだろうと、この時は思っていた。


 それが全ての、始まりになるとは知らずに。