「駄目!」

 使用人を呼ぶ為に踵(きびす)を返した碩有に、女は走り寄ってその腕を掴んだ。
 最初に掴まれた腕を、次いで掴んだ相手の顔を彼はまじまじと見つめた。

 女の顔には恐怖に近い表情が浮かんでいる。
 
「他の人には言わないで。楼を出たことが知れたら、戴剋様に叱られてしまうわ──」

「そうですね。ついでに言うと、見知らぬ男性に触れてもいけないとは言われませんでしたか? 貴女はもう、この屋敷の主の妻なのですから」

 冷静な碩有の言葉に、女は顔を赤らめて手を離した。

「思い出していただけたようですね、琳(りん)夫人」

「な……っ。どうして貴方、私のことを」

 名乗ってもいないのに正体を言い当てられ、目に見えて彼女は狼狽える。

「やはりそうでしたか。でしたら尚のこと、一刻も早くお戻りになった方がいい」

 もし見つかれば、孫の自分でさえもどんな咎めを受けるかわからない。それは彼女にとっても同じことだ。
 領主の夫人は厳しい掟に縛られているのを、この人は果たしてきちんと理解しているのかと訝しく思う。

「で……でも。莉(らい)が──まだ見つからないんです」

「らい?」

「猫です。白い猫。あの子も、私と同じで迷っているのかも」

「では僕が探しておきます。偶然見つけたことにして届けますから、貴女はとにかくお戻りなさい。今頃あちらは騒ぎになっているでしょうから──反対側に向かえば、探しに出ている者に見つかるかもしれない」

 多少苛立って彼がそう言った時、遠くから人を呼ぶ若い女の声が聞こえた。

 女──琳夫人は目に見えてそわそわとし出した。