「今のは忘れてください」
そう言って紫丞孝明は口をつぐんだ。
なんだろうなんだろうなんだろう?
よくわからないけど。
やっぱりこの人も『綾渡』の人間としての私と結婚したいのだろうか?
「さぁ、着きましたよ」
グルグルしそうになる思考を止める。
目的地に着いた。
今は目の前のことだけに集中しなければ……
ゆっくりと車の扉が開かれる。
伸びるレッドカーペット。
その脇を固める黒服と黒のサングラスに身を包んだ屈強そうな男たち。
逃がさない――とでも言わんばかりの出迎えに、ごくりと息を飲み込んだ。
周りを見回す。
深い緑に囲まれた邸宅。
九条の保養所だ。
本当に敵地のど真ん中。
後ろに引くことはもはや許されない。
「参りましょう」
紫丞孝明が再び私に手を差しだした。
その手を取ってレッドカーペットを進む。
敬礼もなにもない。
ただピリピリと痛いほど張り詰めた空気の中を音もなく進む。
レッドカーペットの向こうの二枚の木製扉がゆっくり、ゆっくりと開かれて行く。


