淡い記憶

 五組の前を通るたびに、前から三番目の席に置かれた花瓶が、
青木の存在を訴えているようだった。

一週間後には花も取り除かれ、夏休み前だというのに席替えされて、
青木の机は、一番後ろに置かれた。  

そんな日曜日、青木の家の前を自転車で通りがかった時、
不意に声が聞こえた。
「よう!陽君じゃないか」  

その『よう!』というかけ声が、あまりに青木の声と似ていたので、
驚いてこけそうになりながら自転車を止めて頭を上げると、
青木の父だった。

あまりに驚かれたので、こちらも驚いた顔で陽一郎を見ている。
「陽君、元気かい?」
「はい、元気です」
「水泳は、やってるかい」
「はい」
「このまえ田中君が、来てくれたよ。いい子だね」
「ええ、いい奴です」
「田中君が言ってたよ。小原が心配だって」
「田中が?」
「小原君っていうんだね。陽君としか知らないもんだから、
小原って言われても、誰のことだか判らなくてね」

 青木の父は明るく笑ったが、陽一郎は少し微笑んだだけであった。
「哲夫は、いないけど、また、
遊びにきてくれれば嬉しいよ。寄っていくかい?」
「いえ、今から用があるので、
失礼します」

用などあったわけではなかった。
なぜかそこから逃げ出したかったのだ。
「そう、用事があるんじゃ仕方ないね。また遊びに来なさいね」  

熊のような大きな体なのに、人なつこい笑顔で見送ってくれた。
「失礼します」と言って、ペダルに足をかけた時、
車庫の奥に置かれた青木の自転車に気がついた。